社会福祉士 勉強ノート

社会福祉士資格試験に向けての勉強ノート。個人用メモなので興味ある方は話1/10程度にお読みください。

04 レポート作成の道のり

更新履歴

220530 大枠調べ終え、推測まで完了。
 きょうの勉強時間 1:53
 累計勉強時間 36:02

220601 赤字で更新
 きょうの勉強時間 1:05
 累計勉強時間 38:59

220603 青字で更新
 きょうの勉強時間 2:58
 累計勉強時間 43:53

220604 緑字で更新
 きょうの勉強時間 2:21
 累計勉強時間 46:14

220605 書き上げ完了。
 興望館のくだりは不採用とした。ネガキャンみたいやし。
 参考文献4冊、1638字。トインビーのくだりも無理やり入れた。馬鹿古い本せっかく参照したし。
 考えてみれば産業革命の負の一面とかまったく知らなかったよなあ。
 そこを学びまとめるにあたって、社会福祉士として大切なことは何?を言語化できた。超良い学びであった。
 きょうの勉強時間 0:44
 累計勉強時間 48:28

 

概念整理

アーノルド・トインビー

セツルメント運動の発起人のひとり。セツルメントの父とも。
貧困問題への取り組み。
スラム街の司祭 サミュエル・バーネットに影響をうけた。
労働者教育とそれに伴う意識の向上・環境整備 を解決しようとする。
これを行うための施設こそがセツルメントだ。
アーノルドの理想を体現するための福祉施設としてのセツルメントであるトインビー・ホール。
これを以てアーノルドは福祉事業の先駆者として扱われる。

観光コースでないロンドン : イギリス2000年の歴史を歩く/もっと深い旅をしよう』(借りる予定)
英國産業革命史』(借りる予定)
『セッツルメントの研究』(借りる予定)

19世紀のイギリスの工業化

・休耕地をなくした四輪作の導入
 (四輪作;コムギ⇒カブ⇒オオムギ⇒クローバーの四圃輪栽式農法)
・囲い込みによる集約的土地利用
 (囲い込み;細かい土地が相互に入り組んだ耕地を統合し、所有者を明確にしたうえで排他的に利用する)
などによって、中小の農民が自営農から賃金労働者に転落した。

↑↑いや、このへん違うな。却下。

工業化に従って、鉱工業に従事する労働者の数が増えた。
労働者の生活水準は非常に低かった。児童労働などの問題もあり。
1811-12年 ラッダイト運動 などで抗議活動もあり。
現時点の見立て……これによる貧困層を救うための、福祉施設としてセツルメント運動が展開された?ここ要確認。

 

社会福祉の歴史研究』(一番ヶ瀬康子)※太字は完コピ

1873年 恐慌 帝国主義段階への移行期。
労働者階級の貧困に対するキリスト教社会主義者や理想主義者などのはたらきかけからはじまった(p217)

トインビー・ホールの創始者 バーネットによる、セツルメント活動の説明;
ある近隣地区に住み込み、自己のその生活に同化せしめて、その実情を知り、かつ改善せんとする人々のグループ。彼らは、相互に学び合うこと、各々の経験を通じて、彼自身のみならず、国民全体に、より豊かな生活を築き上げる方法を習得させようとする

セツルメントは、慈善事業が社会事業に転化する中間過程として注目される。

アメリカ;
1882年アメリカで恐慌 資本主義の急速な発展と高度化にともなう労働力の受容に対して、移民は急激に増えていった。(p87)
1880年代より、しだいに、北欧、西欧からの移民に比し、東欧、南欧からの、字が読めない不熟練労働者;新移民(p87)
各都市で3~40%の失業者が生じた。帰国やオーストラリア、西部への移住もままならず、都市に滞留せざるを得なくなっていった。
1881年 熟練工の組織化が推進。ともなって、不熟練労働者が組織労働者から排斥されていった。結果、1890年代になると、大都市においては、工場外と住宅街の生活状態の差、とくに、不熟練労働者の多いスラム街の問題が、目立ってくるようになってきた。(p91)

連邦政府、州政府は無関心。慈善局(1869年マサチューセッツ州に設置がはじまり)も働き乏しい。
ニューヨーク市 1874年で10万人(=労働人口の1/4)が失職。「働く能力をもった大な貧民」

セツルメントで具体的になされたこと というかこれは理念?;(p100)
・働く人々の組織化
・労働運動が歴史的に発展するための意識付け
・労働運動の究極的な倫理的な目的を強調
具体的なアクション;読書会、託児所、スポーツや演劇、音楽のための少年倶楽部など

慈善組織化運動;労働者の運動に対して、個人的な道徳観で非難
セツルメント活動;社会的な認識にたって、それを助成

日本最初のセツルメントは?

西内潔によれば、石井十次明治23年に設立した相愛夜学校、南部日曜学校など?(p226あたり)
エジュケイショナル・セツルメント

大林宗嗣によれば、大森兵蔵明治43年に設立した有隣園。
その事業は幼稚園、児童遊園、児童図書館、児童クラブ、寄る学校、英語学校、土曜会など。

だが、以上のいずれも共通していることは、その当初のなりたちが、セツルメントのエッセンスであるところのものは、全く無視されていたということである。すなわち、対象を労働者階級として意識し、それとの連帯で民主主義的活動を形成しようとした姿勢とは、何ら関係のない慈善事業であったということである。(p227)

一番ヶ瀬の考えによれば、片山潜明治30年(1897年)に設立したキングスレー・ホールである。
片山の動機は苦境において学問を為すことへの志向。米国、英国を訪れ社会、慈善事業を視察。監獄、感化院、孤児院、貧民院などを見学。トインビー・ホールの附属建物であるベリオール・ホールにも宿泊。
キングスレー館は一階が小さな保育園で二階が住宅。表面上のしごとは保育園であった。社会問題の講演会も頻繁に開いた。
しかし、明治34年頃を境に数年後に閉館となった。昭和33年 治安警察法。このへんムズいな……(p233あたり)
片山もキリスト教徒?その思想がセツルメント活動に影響を及ぼしている?

現在も存続しているセツルメントは?

キリスト教 興望館東京スカイツリーのあたり)
仏教 マハヤナ学園
いずれも児童養護施設、保育園を主に現在も稼働している様子。設立の理念や系譜の中に「セツルメント」の言葉は特に見当たらず、まあ~~それはそうだよね。

ただしこのセツルメントのありかたについては諸説あり、一番ヶ瀬もこのように言う。つまり、セツルメント自体の本来的な性格を無視し、その形体を模倣することによって、国民生活の受容に対応することにより、「帝国主義的独占資本主義のもたらした階級分裂の激化をごまかし、下からの闘争を弱め、結局は国家独占資本への奉仕を結果するのに外ならぬ」(社会事業研究会『社会福祉読本』38頁)ものであったといえよう。(p248)
激烈やな。でもこの指摘が、ではなぜ慈善事業ではいけないのか?を考える取っ掛かりにもなるし、その点で言えば的を射ていると感じた。
この社会福祉読本はぜひとも参照すべきものなんやろな~~。神戸市の図書館にはなさそうだ。

東京帝国大学セツルメント

これこそもっとも本来的セツルメントともいうべき、大学セツルメント(…)。代表的なものは、東京帝国大学セツルメントであった。(p250)
末弘厳太郎による趣意書が激アツである。

此の独占者が其の天与の幸福を感謝しつつ其の割き得べき一日一時の余暇を彼等貧しき人々のために捧げ、以て、其の智識を彼等に分与する事は、社会国家のために大いに意義ある仕事と云はねばならぬのみならず、正に彼等幸福なる独占者当然の義務なりと云はねばならぬ。(p251)
これを読むと、なるほどこれこそトインビーの意志を引き継いでいるなと感じる。し、前出のセツルメントらが「慈善事業的正確が完全にぬけきっていないまま、形体的模倣のもとに出発したもの(p240)」と言われることにも納得できる。

大学セツルメントの存在した意義は、労働運動や社会運動に連なる学生運動の中から、学生のち生とヒューマニズムと正義と熱情で最初から労働者の中に入った運動で、しかも学生は教授団の支えがあったことにより、一層実践をスムーズに行いえたということであろう。(p255)
「教授団の支え」というところはかなり重要な点になる気がする。若者だけでやりきれたものなのか、は僕が学生運動のうねりの大きさを知らないからこその浅い直感であるだろうが、教授団の支えがあってこそ大きく取り組めるという背景はあるでしょう。

具体的な活動のなかから、学生たちのなかに、しだいに民衆の現実の具体的な生活問題への認識が深まり、それが、それぞれの主体的な生き方の問題にまで、結実していった場合も、少なくなかった。(p256)

日本のセツルメントは世界大恐慌第二次世界大戦の流れで衰退の道をたどる。公立セツルメントの変形としての市民館が、各種の教育強化事業や経済福祉事業(貯蓄組合など)、体育保健、相談指導、慰安娯楽、各種クラブなど(p261)を実施。防貧を強化で補おうとする日本的な不合理に終始した。大学セツルメントもファシズムの嵐のなかで、圧殺せしめられていった(p266)。昭和13年(1938年)、自発的閉鎖。

 

『英国産業革命史』(アーノルド・トインビー)

難しすぎ。本が古すぎ。引用するのは難しい気がする。がとりあえず引きたいならこのへん。
救貧税の上昇は主として共同耕地の囲い込みに起因した、この囲い込みは農場の数を減少させ、また耕地の牧場への転化の結果労働者に対する受容を非常に減少させた(p113)
畑が今では牧場とされ、農業家たちはほとんど労働者たちを必要としなくなった。そのため貧民たちは職を失って、当然教区に扶養されねばならなかった(p113)
現在我々に要求されているのは愛他本能の抑制ではなく、その組織化である。慈善を科学化することが現代の大問題である。(p105)←これなかなか熱くて、またトインビーの根本思想っぽくて良い。

 

『観光コースでないロンドン』(中村久司)

なかなかおもしろい。関連箇所以外も読んでみたい。ちなみにトインビーのと合わせて読むにあたって紅茶を淹れるなどした。

産業革命によってもたらされた弊害として、労働者は労働時間・賃金などの労働条件について雇用主と団体交渉ができなくなった。また、職場で位置労働者が他の労働者と賃上げまたは労働時間短縮のために団結することは違法となった。この法律によって違法となった行為には、労働者が周りの労働者にストライキに入るよう呼びかけることも含まれていた。(p160)
これ最悪やな。これこそ知りたかった!

ラッダイト運動とは;生産の機械化は、それまで紡績や織布の手工業に従事していた業者や職人の生活を脅かした。(…)倒産したり失業する人々も出てきた。(…)政府に救済する姿勢がないのが明らかになると、機械工場の打ちこわし活動を始める者が出てきた。(p160-161)
このあたりが、産業革命が格差や貧困をもたらしたことの背景と言えそうだ。

ビクトリア女王
帝国主義
チャーティスト運動1848年
選挙権拡大運動

第七代シャフツベリー伯爵
貧困者、児童、労働者、精神疾患者の救済
(精神病院の実態、少年の煙突内清掃作業、ブライアント&メイ マッチ会社の女工)
彼女たちのストライキと、それを支持する運動の盛り上がりによって、潜在していた過酷な労働環境、資本家の搾取、貧困、女性の社会的地位などの問題が、社会で急上昇し、多くの人々の目に明らかになった(p200)
セツルメント運動とは;大学教員・宗教家・学生なとが一体となって、社会福祉事業を行うために、貧困地域に入ってそこに住み、そこの地区の住民とともに貧困解消・生活向上を目指す運動(p203)

 

以下、たたき台として雑記。

19世紀はイギリスやアメリカ北東部にて産業革命が進展した時期である。蒸気機関の普及に伴い、機械工業化が進んだ。しかし生産の機械化は、それまで紡績や織布の手工業に従事していた業者や職人の生活を脅かし、倒産や失業に至る人々も多くいた。また、農耕地が牧場とされ、農業家たちはほとんど労働者たちを必要としなくなり、職を失う貧困者も多くいた。(アーノルド・トインビー『英国産業革命史』p113)

政府に救済する姿勢がないのが明らかになると、機械工場の打ちこわし活動を始める者が出てきた。また、労働時間・賃金などの労働条件について、労働者から雇用主への団体交渉を禁ずる法律もできた。職場で一労働者が他の労働者と賃上げまたは労働時間短縮のために団結することや、労働者が周りの労働者にストライキに入るよう呼びかけることは違法とされた。(中村久司『観光コースでないロンドン』P.160~P.161)。

労働者の労働環境は過酷なものであった。ブライアント&メイというマッチ製造会社の女性工員たちによるストライキ、及びそれを支持する運動の盛り上がりによって、潜在していた過酷な労働環境、資本家の搾取、貧困、女性の社会的地位などの問題が、社会で急上昇し、多くの人々の目に明らかになった(中村久司『観光コースでないロンドン』P.200)

結果として労働効率の悪い不熟練労働者の解雇が進み、ニューヨーク市では4人に1人が失業した。1890年代になると、大都市においては、工場外と住宅街の生活状態の差、とくに、不熟練労働者の多いスラム街の問題が、目立ってくるようになってきた。(一番ヶ瀬康子『社会福祉の歴史研究』p91)

セツルメント運動は、こうした労働者階級の貧困に対するキリスト教社会主義者や理想主義者などのはたらきかけが元となる運動である。イギリスはイースト・ロンドンに設立されたセツルメントであるトインビー・ホールの創始者、バーネットはセツルメント活動を次のように説明した。つまり、「ある近隣地区に住み込み、自己のその生活に同化せしめて、その実情を知り、かつ改善せんとする人々のグループ。彼らは、相互に学び合うこと、各々の経験を通じて、彼自身のみならず、国民全体に、より豊かな生活を築き上げる方法を習得させようとする」(一番ヶ瀬康子『社会福祉の歴史研究』P.91)。この手法はアメリカにも取り入れられ、ハル・ハウスが設立される。

ハル・ハウスが掲げた理念は、①働く人々の組織化 ②労働運動が歴史的に発展するための意識付け ③労働運動の究極的な倫理的な目的を強調 などである。具体的な活動として、読書会、託児所、スポーツや演劇、音楽のための少年倶楽部などがある。労働者間の連携を確保し、労働者の権利主張としての労働運動をすることの必要性やその手法を、脈々と引き継ぐ狙いがあった。

日本でも興望館やマハヤナ学園といった民間セツルメントがあった。児童養護施設、保育園として現代も機能しているが、これらの設立理念に対しては疑義もある。対象者を労働者階級と据えず、労働者の連帯による民主主義的活動の形成を狙わない事業姿勢は、トインビーが志したセツルメントのエッセンスとは関係のない慈善事業であったとする向きも強い。(一番ヶ瀬康子『社会福祉の歴史研究』P.227)

一番ヶ瀬は「セツルメント自体の本来的な性格を無視し、その形体を模倣することによって、国民生活の受容に対応することにより、「帝国主義的独占資本主義のもたらした階級分裂の激化をごまかし、下からの闘争を弱め、結局は国家独占資本への奉仕を結果するのに外ならぬ」(社会事業研究会『社会福祉読本』38頁)ものであったといえよう。(一番ヶ瀬康子『社会福祉の歴史研究』P.248)

トインビーの意志を継いだセツルメントとしては、一番ヶ瀬は東京帝国大学セツルメントを挙げている。末弘厳太郎による趣意書では「此の独占者が其の天与の幸福を感謝しつつ其の割き得べき一日一時の余暇を彼等貧しき人々のために捧げ、以て、其の智識を彼等に分与する事は、社会国家のために大いに意義ある仕事と云はねばならぬのみならず、正に彼等幸福なる独占者当然の義務なりと云はねばならぬ。」(一番ヶ瀬康子『社会福祉の歴史研究』P.251)とある。福祉を志す者として、ニードを有する人々への近接、そして人々に隣接した具体的活動のなかから、現実的な生活問題を認識することの重要性を、セツルメント運動の歴史から私は改めて認識できた。

日本のセツルメントは世界大恐慌から第二次世界大戦の流れで衰退の道をたどる。防貧を教化で補おうとする日本的な不合理に終始した。大学セツルメントもファシズムの嵐のなかで、圧殺せしめられていき、1938年の自発的閉鎖を迎えた(一番ヶ瀬康子『社会福祉の歴史研究』P.266)。しかし、社会的視点に立ってそれを助成するという理念は社会福祉の根底を支えており、現代の福祉事業の礎を築きはじめてきている。

 

雑に書いたけどここまでで900字。引き続き多少の肉付けが必要である。

これで1919字か!思ったよりなげえ。引用とかどこまで書けばよいかわかんないが、残りは入力時に整えます。